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阮元「揅経室集」を読んでみる-2022(令和4)年共通テスト漢文から

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  • 2022/03/21

今年も早くも3月が終わろうとし、だんだんと暖かくなって春めき、梅は咲き、桜・梅が咲こうとしていますね。

突然ですが、令和4年ですが、共通テスト本試験の国語第4問漢文は阮元「揅経室集(けんけいしつしゅう)」からでした。

ということで、出題された阮元の「揅経室集」について調べてみました。調べる範囲を広げてしまって、2ヶ月近くかかり、いまだ完成といえないけど、まぁ呈します。といっても、別に共通テストの解説をしたいわけではありません。

 

1 作者「阮元(げんげん)」って誰?

(1) 阮元の略歴

阮元(げんげん、Ruǎn Yuán、1764-1849)とは、中国清代の政治家であり、地方官として活躍するかたわら、考証学や金石学の学者として著名である。

1764(乾隆29)年1月20日、江蘇省揚州府儀徴県(現在:江蘇省儀徴市)に生まれる。本貫は江蘇省揚州府甘泉県槐泗(現在:江蘇省揚州市邗江区槐泗鎮)。

元は名。字は伯元。号は、良伯、雲台、芸台、揅経老人など。諡号は文達。

1785(乾隆50)年、郷試に合格し、科挙受験中に、清代考証学の学者との親交を得て、考証学による「考工記車制図解」を著述する。

1889(乾隆54)年、25歳にして科挙に及第し、翰林院庶吉士、翰林院編修、文淵閣直閣事等のエリート中央官僚を累進する一方、山東学政、浙江学政、浙江順撫、河南巡撫、川西巡撫員、河南巡撫、湖広総督、両湖総督、広東順撫、広東学政、両広総督、雲貴総督と地方官を務める。その間、浙江巡撫時代には、海賊の取締りや西湖の浚渫を行うなどしており(西湖に「阮公墩」に痕跡が残る)、両広総督時代には、ウィリアム・アマーストの三跪九叩頭の礼拒否事件を受けて、砲台を気づきイギリスに武力で対抗することを進言した。

さらに、浙江巡撫時代には「詁経精舎」、両広総督時代には「学海堂書院」という書院を建てたり、二度の会試副総裁と殿試読巻巻を務めるなど学問活動を行っており、「経籍籑詁」「十三経注疏校勘記」「皇清経解」といった考証学による書物のほか、金石学による書物を著作している。

功績をもって太子少保、太子太保の名誉を与えられ、1849(道光29)年、86歳にて亡くなる。

そして、今回の「揅経室集」は阮元自身の論文等が収められた文集である。

(2) 阮元の経歴

工事中…

2 「題蝶夢園圖卷用董思翁自書詩韻」を読む!! 

さて、今回の共通テストは阮元の論文などが収められた文集である「揅経室集(けんけいしつしゅう)」から出題されていますが、試験問題なので問題作成にあたって適度に切り取りされているので、該当部分を拾ってきました(中國哲學書電子化計劃https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=41488&page=4)。

というわけで、問題部分は試験問題の訓点を参照にしながら、ないところは頑張って読んでいきましょう…

(1) 本文 

題蝶夢園圖卷用董思翁自書詩韻

辛未壬申間余在京師賃屋於西城阜成門内之上岡有通溝自北而南至岡折而東岡臨溝上門多古槐屋後小園不足十畝然亭館花木之盛在城中為佳境矣松柏桑榆槐柳棠梨桃杏棗柰丁香荼䕷藤蘿之屬交柯接蔭而獨無牡丹園有一軒二亭一臺玲峯石井嶔崎其間花晨月夕不知門外有車塵也

余舊藏董思翁自書詩扇有名園蝶夢之句辛未秋有異蝶來園中識者知為太常仙蝶呼之落扇繼而復見之於瓜爾佳氏園中客有呼之入匣奉歸余園者及至園啟之則空匣也壬申春蝶復見於余園臺上晝者祝日苟近我我當圖之蝶落其袖審視良久得其形色乃從容鼓翅而去園故無名也於是始以思翁詩及蝶意名之秋半余奉

使出都是園又屬他人回憶芳叢真如夢矣癸酉春吳門楊氏補帆為畫園圖即以思翁詩翰裝冠卷首以記春明遊跡焉

阮元・揅経室集・22・題蝶夢園図巻用董思翁自書詩韻

 

(2) 書き下し文

蝶夢園図の巻に董思翁の自ら書せし詩韻を用て題す

辛未・壬申間、余京師に在りて屋を西城阜成門内の上に賃(か)る。岡に通溝(つうこう)有りて、北より南し、岡に至りて折れて東す。岡より溝上を臨めば、門古槐多し。屋後の小園十畝に足らず。然れども亭館花木の盛んなること城中に在りて佳境となす。松柏、桑榆、槐、柳、棠梨、桃杏、棗柰、丁香、荼䕷、藤蘿の屬、柯を交え、蔭を接して獨り牡丹無し。園に一軒、二亭、一臺、玲峯、石井、嶔崎有りて、其の間花晨月夕、門外に車塵有るを知らざるなり。

余旧(もと)董思翁の自ら詩を書せし扇を蔵するに、「名園」「蝶夢」の句有り。辛未の秋、異蝶の園中に来たる有り。識者知りて太常仙蝶と為し、之を呼べば扇に落つ。継いで復た之を瓜爾佳氏の園中に見る。客にこれを呼びて匣に入れ奉じて余の園に帰さんとする者有り。園に至りてこれを啓くに及べば、則ち空匣なり。壬申の春、蝶復た余の園の台上に見(あらわ)る。画者祝りて曰く、「苟しくも我に近づかば、我当に之を図くべし」と。蝶其の袖に落ち、審らかに視ること良(やや)久しくして、其の形色を得(う)れば、乃ち従容として翅を鼓ちて去る。園故名無し。是に於いて始めて思翁の詩及び蝶の意を以て之に名づく。秋半ばにして、余使いを奉じて都を出で、是の園も又た他人に属す。芳叢を回憶すれば、真に夢のごとし。

癸酉の春、吳門の楊氏補帆、園図を画と為し、即ち思翁の詩翰を以て、冠卷首に装い、以て春明の遊跡を記す。

 

(3) 現代語訳

董思翁が自ら詠み書いた詩韻を用いて、蝶夢園の図巻に題をつけた!!

 1811年から1812年の間、私は北京の都におり、北京城の西側にある阜成門の内に屋敷を借りて住んでいた。岡に通ずる掘り割りがあり、北から南に流れ、岡のたもとで東に曲がっていた。岡から掘り割りを見ると、古いエンジュの木が多い門であった。屋敷の庭は10畝にみたないものであったが、屋敷の花木の盛んである様子は北京城内の景勝地のようだった。松やコノテガシワ、クワやニレの木、エンジュの木、柳、コナシ、ズミ、ヒメカイドウ、桃や杏、なつめやジャスミン、香木の丁香、トキンイバラ、フジカズラの類いが、枝を交差させ、影を接するようにして生い茂っているが、ボタンだけはなかった。園には、1軒の屋敷、2つの亭、1つの見晴台があり、美しい山、石井、高く険しい感じの築山があり、その園の中で春の花の咲いた朝を迎えたり、中秋を名月を愛でると、門外に車の往来があるなんて忘れてしまうようだ。

 私は、以前民時代の董思翁(董其昌)が詠み書き残した扇を持っていたが、その詩には「名園」「蝶夢」の句があった。1811年秋、見たことのないような蝶が我が園にやってきた。物知りに尋ねたところ「太常仙蝶」だというので、この蝶を呼べば董思翁の扇の上に止まった。

 継いで再び、瓜爾佳(グワルギャ)氏の園に蝶があらわれた。瓜爾佳氏を訪ねた客人の中にこの蝶を呼び寄せて箱の中に入れて私の園に戻そうとした者がいた。私の園に来て箱を開いたが、その箱はなんと空っぽであった。翌1812年春、蝶が再び私の園の見晴台にあらわれた。画者が祈るようにして「もし私に近づいてくれたならば、私は必ず蝶を描き残してやろう」と言った。すると、蝶は画者の袖に止まったので、画者がゆっくりじっくりよく見ることができた、その形や色を詳細に把握することができたところで、蝶は羽ばたいて去って行った。園には元々名前がなかったが、初めて董思翁の氏及び珍しい蝶があらわれた意味を踏まえて名付けた。同年秋半ば、私は朝廷から任務を拝命して北京の都を離れ、この園も他人の手に渡った。花が咲いている美しい叢木を思い出すと、本当に夢のようなであった。

 1813年春、蘇州の揚氏補帆という者が、我が園の様子を画として書き、董思翁の詩を巻頭に書き、春園の様子を残した。

(4) 語句説明

(もって) 前置詞・介詞ととらえて「…によって」「…で」(依拠する事物や方法、原因や理由と表す)とした。

董思翁  董其昌(とうきしょう)、思翁は号。明代末期の文人であり、書画に優れた業績を残した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E5%85%B6%E6%98%8C

辛未(しんび)  干支の一つ。1811年

cf.干支(かんし・えと) 十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申戌亥)酉を合せた60を周期のとする数詞。

壬申(じんしん) 干支の一つ。1812年

 一人称代詞 私

京師(けいし) 首都、みやこ

(屋) 貸す。借りる

西城阜成門 北京の城門のひとつhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E3%81%AE%E5%9F%8E%E9%96%80

通溝 ほりわり

(かい)えんじゅ

(せ) 土地の面積の単位。秦以降は、5尺を1歩として、240平方歩を1畝とする。

佳境 景勝地。景色の良いところ。味の良い部分。詩文などの最も味わい深いところ

松柏(しょうはく)松とコノテガシワ(=ヒノキに似た木)。常緑樹であることから、人の節操・長寿・繁栄のたとえとされる。

桑榆(そうゆ)クワとニレの木。

棠梨(とうり・ずみ)コナシ、ズミ、ヒメカイドウ

(そう)ナツメ

(だい)茉莉花・モクセイ科ジャスミン属の常緑低木

丁香(ていこう・ちょうこう)熱帯産のフトモモ科の常緑高木。花・葉の芳香が強い香木。薬用にも使われた。

荼䕷(とみ)トキンイバラ

藤蘿(とうら)つる草の総称。フジカズラ。

[属] 種類、同類、たぐい、仲間

(か)えだ

(だい)うてな。四方を見晴らすための高くて平らな建造物。高くて平らな、台のような形をした土地

嶔崎(きんき)山が高く険しい様

花晨(かしん)花の咲いた朝、花朝

月夕(げっせき)陰暦8月15日、中秋の名月の夜。春の「花朝」とともに、1年のうち春秋二季の最も楽しむべきときをいう。

識者 見識・判断力のある人

太常仙蝶 https://www.epochtimes.com/gb/18/10/24/n10806455.htm

(おつ) しかるべき所におさまる。手に入る

 続いて、あいついで、ついで

(また) 副詞=もう一度、さらに、それに、

瓜爾佳氏 満洲族名家の姓。グワルギャ(gūwalgiya)

cf.オボイ(清朝草創期の重臣であり、武人。康熙帝の摂政となり権威をふるったが、親政をもくろむ康煕帝により粛正される)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9C%E3%82%A4

空匣 空の箱

(つまび・らか)くわしい、細かく行き届くさま。詳しく、細かく、つまびらかに

(やや) 非常に。はなはだ。やや

(う) 「う」(ア行下二段活用)、手に入れる。自分のものにする。知る。さとる。理解する。

從容 ゆったりと落ち着いてくつろぐさま。ゆとりのあるさま

 つつしんで受ける。うけたまわる

使(つか・ひ) 使者、使臣、外交使節

回憶 思い出す。追憶

芳叢 花の咲いている美しいくさむら

癸酉 1813年

・吳門(ごもん) 蘇州

(5) 句法説明

(あリ)・有(あリ) 存現文、目的語が表す人や事物の存在や多寡を表す文としてあらわれる。

(あリ) 「人・物+在+場所」で、「場所に人・物がある」を表す。

(あリ) 「場所+有+人・物」で、「場所に人・物がある」を表す。

(いやシクモ~バ) 仮定の接続詞。もし~ならば。本来、仮定条件であるので「未然形+ば」と訓読すべきであるが、漢文訓読において近世(江戸時代)の語法の影響により改定条件も確定条件と同じく「已然形+ば」と訓読されることがある。本事例では、「近づく」カ行4段活用であるため(か・き・く・く・け・け)、本来の仮定条件では「近づかば」と訓読されるが、「近づけば」と訓読されることもある。

(まさニ…ベし) 義務・必然を表す助動詞であり、「当然~はずだ、だろう」と、「原則的な道理に照らして当然である、妥当である」という道義的な義務性を表す。派生して「きっと~だろう」と推量を表す助動詞ともなる。再読文字として訓読する。

 

3 詩を吟じる!!

(1) 本文

春城花事小園多 幾度看花幾度歌 

花為我開畱我住 人隨舂去奈春何

思翁夢好遺書扇 仙蝶圖成染袖羅

他日誰家還種竹 坐輿可許子猷過

阮元・揅経室集・22・題蝶夢園図巻用董思翁自書詩韻・詩傍線有

(2) 書き下し文

春城花事小園に多く       幾度か花を看て 幾度か歌う

花は我が為に開きて我を留め住め 人は春に随いて去り春を奈何せん

思翁夢は好く書扇を遺し     仙蝶図成りて袖羅を染む

他日誰が家か還た竹を種え    輿に坐して子猷の過ぎるを許すべき

 

(3) 現代語訳 

春の街には盛んに咲く花を見歩いたり、花を愛でたりする庭が多くあり、

なんども花を見ては何度も歌ったものだ

花は私のために咲いて私を引き留めるので、私は何度も立ち止まって花を愛でたものだ

人は春とともに去って行くけれども、私はその春をどうしてくれようか、いやどうすることもできない

董思翁の夢は素晴らしい詩として扇に残り、私の庭にあらわれた太常仙蝶は画者によって画となり、薄物の着物の袖の絵柄となった。

竹好きだった王子猷(徽之)を歓待した故事のように、いつの日か誰か自分の家に同じように竹を植えて、輿の乗ったまま王子猷ような者が竹を愛でて立ち去ろうさせて、引き留め、歓待し、意気投合しようとするのだろうか

(4) 詩の形式と押韻

 1句が7文字である七言、全部で8句であるので、「七言律詩」である。

 「七言律詩」の場合、第1句末と偶数句末で押韻する(詩中の二重線)

 本詩の場合

 ①第1句末 多(端歌平)

 ②第4句末 何(匣歌平)

 ③第6句末 羅(来歌平)

 ④第8句末 過(見過去)

 と韻を踏んでいる。第8句末は類似音。

(5) 語句説明

花事 春、盛んに咲く花を見歩いたり、花を愛でたりすること

留む 引き留める

住む 立ち止まる、少しの間滞在する

 目が粗くて薄く、柔らかな絹織物。うすもの

坐輿可許子猷過

cf.共通テストの注:子猷は、東晋・王徽之(おうきし)の字。竹好きの子猷は通りかかった家によい竹があるのを見つけ、感嘆して朗詠し、輿に乗ったまま帰ろうとした。その家の主人は王子猷が立ち寄るのを待っていたので、引き留めて歓待し、意気投合したという故事を踏まえる。王徽之は、東晋の文人であり、字は子猷。王羲之の第5子。竹を愛し、奇行の士として知られる。(?-388)。

(6) 句法説明

奈何・如何・若何(いかんセン) ~はどうすればよいか(疑問)。~はどうしようか、どうしようもない(反語)。如何が目的語をとる場合には、目的語は「如」と「何」の間におかれる。

 

4 参考文献

(1) 阮元について

・橋本高勝「阮元」、中国思想史(下)335頁ペリカン社、昭和62年

・Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AE%E5%85%83

http://rarebookdl.ihp.sinica.edu.tw/fsnpeople/Search/person.jsp?PrintList=7518&isOpen=false

 

(2) 揅経室集について

https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=41488&page=4

 

(3) 語句

・漢辞海

 

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